カテゴリー「詩」の記事一覧
- 2010.02.22 「わからずじまいの海の底」
- 2010.02.21 「静寂」
- 2010.02.20 「はじまり」
- 2010.02.19 「酩酊」
- 2010.02.18 「体に内在している衰退」
- 2010.02.17 「長い誤解」
- 2010.02.16 「詩」
- 2010.02.15 「反省の詩」
- 2010.02.14 「丁寧」
- 2010.02.13 「味気のなさとたたかうならば」
しんとした様子
独り言はやみ、言葉の縛りから解かれる
人を人たらしめるこの言語
副作用で人は常に縛られたまま
思い切って言葉をなくし底へと潜ってゆく
我々は動物になる
謎の縛りから逃れたひと時
我々の早口になった言葉は
その速度により考えること感じることを奪う
加速する文明は言葉により人を生きた亡霊にする
我々文明人はあの、わからずじまいの海の底に立ち還らねばならない
独り言はやみ、言葉の縛りから解かれる
人を人たらしめるこの言語
副作用で人は常に縛られたまま
思い切って言葉をなくし底へと潜ってゆく
我々は動物になる
謎の縛りから逃れたひと時
我々の早口になった言葉は
その速度により考えること感じることを奪う
加速する文明は言葉により人を生きた亡霊にする
我々文明人はあの、わからずじまいの海の底に立ち還らねばならない
あまりの静寂のため小僧のお前は泣く
生き方という選択はまだ知らず
この世界を遊んでよいと言えど
信じられぬ様子だ
さてお前の真の望みを見つめることはできるか
その静寂を友とし己の内をのぞけ
見果てぬものは見果てぬものでしかない
お前の知る世界で最上のものこそ隅にあれ
お前は空の広さを知らず知らず察し
笑顔の内に人の心の深さを見る
だが真の世界の広さはお前の心の内に実は在る
その広さこそ静寂の正体で
お前はそれを友とせよ
クジラの背が見える
それは心の海の中か
テレビで見た記憶か
あぁ非常にゆっくりだ
ゆっくり泳いでいる
水の色は薄い青
晴れた空のように澄みわたる
それはいつかテレビで観た映像
そしてこれはいつか学校で習った言葉
心の元はテレビや学校が作ったもの
ではその奥に何が
あぁ見えるのはタケノコだ
力強く伸びたタケノコ
竹林は素晴らしい
竹林は豊かだ
それは心の中の大切な記憶
お前はその竹林に友を招くのか
その竹林の奥に古いよく手入れされた日本家屋
あぁそんなものか
それは子供の頃の記憶
子供の頃というのは尊い
子供のように心の視点を常に今に置き
新しい一日を過ごせ
それが新たな尊い記憶になればいい
お酒をやめて少したった頃
そいつはオレの所にやって来た
オマエは誰だと尋ねると
「詩だ」
と答える
詩とは言葉を並べたものではないのか
と言うと
「オレに名前を付けたのはオマエだ」
と言う
いつからそこにいたんだ
と聞くと
「ずっといた
オマエの頭がいそがしくて気がつかなかっただけだ」
と言う
とにかくオレはそいつが来てから変わった
詩は基本的にいい奴のように思えた
そいつはあれこれオレに言う
「優しくないな」
「あれいいぞ」
「オレを大事にしろ」
「なぜ忙しくしてるんだ」
「何が大切なんだ」
「いま何が頭にあるのか」
という風に
オレはいちいちそれに従いそれについて考えた
ある時そいつはオレに言う
「オマエと一緒にイジワルな猿がいる」
どうやらそいつがオレにワルさをするらしい
どうしたらいいと詩に聞くと
とにかくイジワルな猿の話を聞いてやれと言う
イジワルな猿は
「やりたいことができない」
と言う
何をやりたいのかと聞くと
「ぼーっと散歩がしたい」
と言う
なんだそんな事かと叶えてやった
そのようにいろいろとイジワルな猿の願いを叶えてやっているとそのうちイジワルでないただの猿になった
その猿は詩と一緒にいると機嫌がいいようだ
そして時々やりたい事と食べ物を要求する
ある日、詩は言う
「最近オマエは調子が良いだろう
オレがいるからだ
オレと離れたくないならオレを言葉にして書きとめろ
しかしオレは本質的には言葉ではない
オレの事が良く分かればオマエはオレの兄弟がいろんな人のところにいるのに気づくだろう
オマエの好きな芸術やロックをつくったのもオレの兄弟だ
基本的にオレに足りない肉体性や物質性を混ぜ合わせて芸術はできている
しかし本当に大切なのは芸術ではなくオマエらの言うところの魂そのものだ
魂もまたオレの別の名だ
そしてオレの親は「死」だ
オレは死から生まれた」
という訳でオレはこうして言葉を書き留めるようになったわけである
これらは詩ではなく詩を書き留めようとする試みである
そいつはオレの所にやって来た
オマエは誰だと尋ねると
「詩だ」
と答える
詩とは言葉を並べたものではないのか
と言うと
「オレに名前を付けたのはオマエだ」
と言う
いつからそこにいたんだ
と聞くと
「ずっといた
オマエの頭がいそがしくて気がつかなかっただけだ」
と言う
とにかくオレはそいつが来てから変わった
詩は基本的にいい奴のように思えた
そいつはあれこれオレに言う
「優しくないな」
「あれいいぞ」
「オレを大事にしろ」
「なぜ忙しくしてるんだ」
「何が大切なんだ」
「いま何が頭にあるのか」
という風に
オレはいちいちそれに従いそれについて考えた
ある時そいつはオレに言う
「オマエと一緒にイジワルな猿がいる」
どうやらそいつがオレにワルさをするらしい
どうしたらいいと詩に聞くと
とにかくイジワルな猿の話を聞いてやれと言う
イジワルな猿は
「やりたいことができない」
と言う
何をやりたいのかと聞くと
「ぼーっと散歩がしたい」
と言う
なんだそんな事かと叶えてやった
そのようにいろいろとイジワルな猿の願いを叶えてやっているとそのうちイジワルでないただの猿になった
その猿は詩と一緒にいると機嫌がいいようだ
そして時々やりたい事と食べ物を要求する
ある日、詩は言う
「最近オマエは調子が良いだろう
オレがいるからだ
オレと離れたくないならオレを言葉にして書きとめろ
しかしオレは本質的には言葉ではない
オレの事が良く分かればオマエはオレの兄弟がいろんな人のところにいるのに気づくだろう
オマエの好きな芸術やロックをつくったのもオレの兄弟だ
基本的にオレに足りない肉体性や物質性を混ぜ合わせて芸術はできている
しかし本当に大切なのは芸術ではなくオマエらの言うところの魂そのものだ
魂もまたオレの別の名だ
そしてオレの親は「死」だ
オレは死から生まれた」
という訳でオレはこうして言葉を書き留めるようになったわけである
これらは詩ではなく詩を書き留めようとする試みである
わらわれて
ふきげん
はをくいしばり
がんばる
でもむだ
ああ
なさけない
ええさ
ねればよみがえる
わすれたころ
しくじる
なんどきいても
わすれる
おおそういうことか
まが
ぬけている
だがええわ
こころはいつも
よゆう
いるもんみんな
ある
いつもどうも
わなにはまっても
そんな
きにしない
からだかあるだけ
ええ
からだに
きいてみた
やすみたいとこ
あるかいな
やすみたいとこ
だらけです
ならばかまわず
やすみます
きらくにいきてるな
そうだ
きらくなんです
わなにはまるぜ
はまんないもん
ああそうですか
はいすみません
まあめしくえや
ではいただく
うまいがな
そりゃえな
しごとはこんど
またやりゃいいな
たいしたやつじゃないな
ああかまわん
みんないうてる
だれのこと
みんなだよ
わししらんやつ
そうかもな
はらへった
うるせえぞ
だれのこと
おまえだよ
そりゃすまん
それだけか
それだけだ
つまらない
そりゃそだろ
体に内在している衰退
病院帰りにふとその言葉が頭に浮かんだ
17時過ぎ
公園では寒く暗いにもかかわらず
子供たちが遊びに夢中
この美しい光景と
体に内在している衰退
の対比
死のことは思うまい
代わりに生のことを思う
まるで違うもの
今か
今でないか
の違い
全て今だ
よって死はない
と昔の人が本に書いていた
故人たちも会えないが
心の中にいる
生前よりはっきりと
子どもの頃の学校の授業
お父さんのお仕事は何?
と先生に問われ
とっさに言葉が出なかった
ただ
死んでます
と答えればよかった
別に特別なことではないように
病院帰りにふとその言葉が頭に浮かんだ
17時過ぎ
公園では寒く暗いにもかかわらず
子供たちが遊びに夢中
この美しい光景と
体に内在している衰退
の対比
死のことは思うまい
代わりに生のことを思う
まるで違うもの
今か
今でないか
の違い
全て今だ
よって死はない
と昔の人が本に書いていた
故人たちも会えないが
心の中にいる
生前よりはっきりと
子どもの頃の学校の授業
お父さんのお仕事は何?
と先生に問われ
とっさに言葉が出なかった
ただ
死んでます
と答えればよかった
別に特別なことではないように
きみが人生をかけて
大切に守ろうとしたのは
魂の美しい部分
ではなくて
ざんねん
ただのプライド
だった
そんなものは
もう必要ない
すててしまおう
大丈夫
まだ人生も
愛もある
よく見ろ
そして
気づけ
むかし詩を書くということでイメージを捕まえるというか、深層心理のイメージを言葉で上書きするような感じで書いた詩がノートに残っている。
そういう時は奥の方に潜れていて、なるほど何か自分に暗示をかけたのか、その詩は未来を提示して実現している。
言葉の力かイメージの力か、はたまた深層心理の書き換えによるのか分からないが、何かしら人生を好転させたらしい。
仕組みはよくわからないが、とても人生に影響力はあり、それだけに怖くもあるが、詩を書く行為の効力のようなものは分かる。
それと作品が"良い"かは、また全然別のことなんだろうが、そういう実利的な「詩」「歌詞」「歌」へのアプローチはあると思う。
昔のノートをチラッとみていると、ぼくは本当に自分の為だけに「音楽」をやっていて、人を喜ばせる為でなくひたすら自分への実利を求めていたフシがある。
それでも深い自分の奥に潜れば深層のところで人と繋がれるのでは、と思っていた。
なかなかにワガママであったと思う。
だけどとても原始的な音楽や詩の本来のあり方なのでは、とも思う。
幸せの傲慢は知っていたはずが
黙らずにいる自分を恥じる
せめて感謝は忘れぬように
人の至らなさも知っていたはずが
わけ知り顔の自分を恥じる
世界の広さは忘れぬようように
そうして己れを省みて
あなたは何度も立ち止まる
心に愛があるならば
そのままでいてかまわない
扉を閉じているよりも
いつでも人を招くがよい
心ある人と友人になれるかもしれない
友は人生の宝だ
空気の温度を感じる時
音に耳を傾ける時
匂いを感じる時
目の前の物を見る時
体の心地良さを確かめる時
あなたと話す時
今、丁寧に をくりかえし
また、丁寧に をくりかえし
その行方は 気にしなくてよい
そうすれば生きている心地があり続ける
その敵は誰が作り出した
たたかいの武器は何
そしてその敵はどこに潜んでいる
閉じたままの引き出しの中
のり気のしない約束
具体性のない言葉だけの夢
今を忘れる為の希望
きっと頭の声と体の声と魂の声が混ざっている
まず体の声に耳をかす
それに従えば
魂の声がわかるようになる
それに「詩」と名付けて大切にする
それは武器にも防具にもなる