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高田渡を聴いてた
毎日書いてると、だんだんと書くことが無くなってくる。
なんかあったとしても、読んでもつまんないだろうな、とか考え出す。
そして昔の事とか、人生とかからほじくり出そうとしたりする。
そういう時になんだか頭を使うので、良いような気がする。
なので無理やり何か書こうとしたりする。

朝の通勤ルートで、町の商店街を通るようになった。
アーケードのせいで暗い商店街を抜けた時の、駅前の空が開けてくる感じが好きなのだ。



今日は高田渡とマーティン・カーシーの入ったカセットテープを聴いていた。
高田渡は、なんでいいんだろう。
僕は特に日本のフォークが好きな訳ではないのだ。
フォークが好きだと言うと、割と面倒な誤解が生じるのである。
その辺りの説明がややこしい。

60年代から70年代の日本のフォークは、おそらく大雑把にボブ・ディランとピーターポール&マリー等に影響を受けた音楽なんだろうと思う。
フォークって、元は"民間の"みたいな意味だ。
アメリカでのフォークリバイバルの頃に、働きながら歌う労働歌、子守唄、過去の事件を歌った伝承歌みたいなのを取り上げて歌う人達がでてきた。
ブルースとかも大まかにはフォークなのではないか。
たくさんの人を通って、膨らんで伝わって来た歌を、元々はフォークって呼んだんだと思う。
歌詞を変えたりもしたし、そういうのも全然OK、著作権フリーみたいな世界のはず。
それが著作権とか言い出して、やれツェッペリンや、ポールサイモン、が盗作だ、となってきた。
そして根無し草みたいになって行く。

日本のフォークソングみたいなCDを借りた時、高田渡だけ古くなかった。
ミシシッピ・ジョン・ハートみたいなギターの弾き方だったから古く聞こえなかったんだろう。
そういうルーツに根付いていた。
当時そういう人は珍しかったんだと思う。

ミシシッピ・ジョン・ハートの歌を和訳したり、あちらの曲に日本の詩人の詩をのせたりしてたみたい。
元歌はアレだよとかネタにされていたけど、フォークって本来そういう音楽なのだ。
自分自分してない音楽。

当時僕は、躁鬱症の後で、音楽のオリジナリティを追求して狂気の世界に行くのがとても怖かった。
だから、そういう人と繋がってる歌、自己表現でない音楽にとても救われた。
そういうのに僕も繋がりたかった。
マーティン・カーシーもそういう強い音楽だった。

そういう説明し辛い独自な事をしてると誤解も多いんだろうか、渡さんは酒に溺れていった。
ライブのMCで西岡恭蔵さんの自殺に触れて、「死ぬなら水を張った洗面器に顔をつけて死んだら、あー、あの人は根性があったなと言われるよ」、とおっしゃって笑いを取っていた。
渡さんが亡くなった後に、そのMCを思い出して、酒の入った洗面器に顔をつけて亡くなったようなもんだと思ってしまった。
それ以来、高田渡の歌を聴くのがちょっと辛くなった。
年取っても音楽をやっている希望、みたいな感じの人だったので、余計に。

「タカダワタル的」のサントラCDを最近は聴けるようになった。
スタジオ録音やそれ以前のライブより、何か抜けてる感がある。
とっても幸せそうだ。
力みのない、そういう境地にいたんだと思う。
凄い人だったんだと思う。
だが僕は酒は嫌だなと思うのだ。
笑いを取れる、親しみの持てる弱みではあるけど、身体を壊すまで飲んじゃダメだ、、

   
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