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希望と恐怖
希望を持つことは大事なことだと思うようになった。もう3、4年希望について考えている。

 その為に自分の心に問わねばならない。一番大事なものをはっきり持っておくこと、その他に大事なものの優先順位をはっきりさせておく事。自分はそうしていなかったから、手段がいつの間にか目的に変わってしまって道をそれたりしたのだと分かった。一番の目的を決めていないと人に流された時に行く先を見失う。目的がはっきりしていれば、人に流されず影響や刺激を得れる。つまり目的が定まっていないと本当に上手く人と関わる事ができない。そういう風に考えている。
 
 だけれど、自分の心と向き合うのは難しい。根強い無意識の恐怖、劣等感がもしあるのなら、それらと向き合わねば自分の事は分からない。
 無意識に余分な物がくっ付いていない人は幸いだ。そういう人は実に素直に歩んで行ける。親の力なのだと思う。
 僕は自分の無意識の場所に何か恐怖があるように思えた。だから父親の事を書いてそれに向き合おうと思った。
 病気の事を書くのは自分に向き合う為ではない。人には色々事情があると言うこと、それから事情に振り回されている人に、僕もそういうのがあるのだと知って欲しかった。病気の事はもうクリアできた事。学んだ事も多い。事情があることで得する事もある。人と深く関われる。

 そういうことを色々書いても結局は、自分の視点からわかった事でしかない。だけど、僕は何か書きたかったのだ。自分の得たものは何なのか知りたかった。それに、自分の無意識の恐怖も知りたかった。

 小学生の時に怖い夢を見続けた事があった。それで眠るのが怖くなった。起きた時には夢を覚えていなくて恐怖だけが残っている。もう眠りたくないと思った。
 中学に上がった頃にその夢をまた見た。そしてその時は内容を覚えていた。海の上の道をわたって行く夢だった。その道の先で怖い事が起こっていて、自分はそこに向かって進んでいて、引き返す事ができない。そんな夢だった。
 その夢をはっきり思い出せた後、もうその夢は見なかった。僕はそれは死への恐怖が見せた夢だと思った。
 だけども、ここ数年、その夢は自分が胎児だった頃の記憶が夢になって出たものではないかと思うようになった。父親が事故死した時の母親の思いが伝わった記憶ではないかと思った。

 考えすぎだろうか?

 だけれど、自分では納得できた。僕には父親の死の悲しみが刻み込まれている。だけど、それは孤独な事ではない。人それぞれもちろん色々あるのだから。
 僕は、色々ある人と深く交流する事ができた。それは、やっかいな事を背負っていたおかげだ。

 差し引きゼロならば、大きく悲しければ、大きく喜ぶ事もできる。

 そんなものなのだろう。希望は誰かが親切にも与えてくれるのだ。
   
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