精神が大人になるという事は、いろんな常識を身につけていく事なのだろう。幼い頃に未知だった世界を、少しずつ発見し獲得する事と言えるかもしれない。しかしそれは角度を変えて見れば、常識が無かったから、また未知だったから持てた自分や他者や世界に対する幻想を、常識によって失ってゆく過程とも言えるのだ。
そんな子供と大人の狭間には、失われてゆく幻想の輝きに囚われて大人になる事を拒んでしまう人達もいる。蝶になる前の蛹のように、まだ形が定まる前の何者でもない故の美しさを守ろうとして、袋小路に迷い込んでしまうのだ。そして蝶になる事のないサナギは、、。そうだ、ご存知の通りだ。
18才の夏、僕はまるで何もかも無くしたような気分でいた。 これまで人生そのものだと思っていた学生生活はただの通過地点で、もう既に通り過ぎてしまった過去なのだという事に唖然としていた。積み上げてきた人間関係は消え去り、友人達はそれぞれの生活を始め、僕は新しい環境に違和感を感じていた。
その頃、同級生の何人かが車の事故で死んだ。生き残った人間と何が違うのだろうか、生きている僕は何をすべきなんだろうか、なんとなく未来を決める事に皆は不安や疑問を持たないのだろうか、そんな事を考えるようになってしまった。大学の授業は学生にとっては卒業する為の、講師にとっては教職という仕事を遂行する為の形だけの物に見え、馬鹿馬鹿しく思えて出席する気になれないでいた。
体を使っている時には現状や未来への不安は消えたので、僕は以前から好きだった音楽にのめり込むようになった。エレキギターを歪ませて体に震度が伝わる時、ベースの低音が体を揺らす時、ドラムのスネアが心臓に響く時、僕は生きている実感が持てた。肉体的な音を欲していた。僕は大学の授業に出ずに、どんどんバンドにのめり込むようになった。
可能性に満ちていたはずの時期なのに、なぜそんなに閉塞感を感じていたのだろうか。単に臆病だったので行動を起こせなかったのかもしれない。それとも何かしらの幻想を守ろうとしていたのだろうか。
そんな18才の夏の間を、僕は実家のある町で過ごす事にした。カセットテープに録音した音楽を聴きながら故郷への帰路についた。市バスや路面電車を乗り継ぎバスセンターまで行き、そこから二時間ほどバスに乗れば、僕の生まれた町にたどり着く。
「いずもっち?」
僕は乗り込んだバスの中で声をかけられた。声の主は、中学の同級生の壱子だった。
僕は「いずもっち」と呼ばれていたのだ。苗字の泉から、「いずみっち」と呼ばれるようにになり、やがてそれはいつの間にか「いずもっち」になっていた。中学までの同級生は、たいていは僕の事を「いずもっち」と呼ぶ。自分でも気に入っていた呼び名だが、少し離れた高校に行くようになり、僕の事を「いずもっち」と呼ぶのは中学までの同級生だけになっていた。
「やっぱり、いずもっちだ。一年ぶりじゃない?」
壱子は、白いTシャツにベージュの短パンという、ラフな格好をしていた。白いキャップが良く似合っている。
「壱子も家に帰るとこか?」
「うん、そう。いずもっち、後ろの席に移動しない?」
屈託の無い笑顔だ。言われるままに、僕らはバスの一番後ろから二つ目の席に移動した。壱子は帽子を脱いで髪を整えた。座席は二人がけの狭い椅子なので、自然と距離は近くなった。
中学の時、僕と壱子はそれほど仲が良かった訳ではない。同じバスケ部ではあったが、壱子は当時、高嶺の花という感じがして話しかけづらかったのだ。そんな壱子と親しくなったのは、去年の夏、友人の山本に誘われて一緒に海に行ったからだった。
その頃、壱子は山本と交際していた。山本は僕ともう一人、笹山も誘い、僕らは壱子を含めて四人で日本海まで海水浴に行った。それは友人のデートについて行ったようなものだった。浜辺では、はっぴいえんどの「風来坊」が流れていた。変な歌があるもんだと思ったので記憶に残っている。その歌と、壱子が着ていた鮮やかな赤色の水着を、よく覚えている。赤は壱子にとても似合っていた。僕たちは浜辺で遊んだり、軽く海に入ったりしてのんびりと過ごした。
僕は質問をした。
「あれから山本どうしてる?」
「うん、実はあんまり知らないの。」
壱子が微妙な答えだったので、二人は別れたのだろうと想像できた。僕はそれ以上は聞かない事にした。
去年、海に行った帰りの電車の中で、壱子と山本は喧嘩をしていた。何が原因かは分からないが、よくありそうな男女の揉め事のようだった。僕は気まずいので、疲れて寝たふりをしていた。笹山は本当に眠っているようだった。喧嘩は続き、壱子は山本の持っていたカセットテープを、電車の窓から投げ捨てた。壱子はけっこう激しい性格なんだなと、その時の僕は思った。
「いずもっち、大学はどう?」
「うん、実はあんまり行ってない。授業がつまんないから、ギターばっか弾いているよ」
「いずもっち、ギター好きだったもんね」
「弾いてると落ち着くんだ。音に集中するから理屈を忘れられるし、耳だけじゃなくて皮膚でも音の気持ち良さを感じられるから、感覚が肉体的になる。常識を忘れて、いろんな事を本能で判断できるんだ」
「いづもっちは頭が回るから、きっと脳みそが疲れ過ぎちゃうんだね」
「きっと常識的な事に疲れてるんだと思う」
壱子は話しやすい相手だった。気を使わずに喋れる。友達の彼女だったというのもあるんだろう。僕らは壱子の専門学校の事、同級生の近況、当時の中学の話など、色々と話をした。
ひと通り過去や現在の話をした後で、僕は最近思っている事を話した。
「僕は中学高校とね、ずっと今を大事に生きてたんだよ。今を大事にする事が生きることだと思ってた。でも卒業したらそれまで大事に積み重ねた暮らしがどっか行っちゃって、もう存在しないっていう。そして周りはみんな将来の事を考えていて、取り残された気分になってね。それで虚しくなっちゃってね」
壱子は少し間をあけて言った。
「いづもっちの話、ちょっとだけわかる。私はお母さんにね、女の人の一番綺麗な時期は20歳前後だってよく言われてきたのよ。だから女の子は今を見てる人と将来を見てる人に分かれちゃうんだって。綺麗な今を楽しもうって人と、綺麗なうちに相手を見つけてその後を考える人と。私はどちらかというと今を見てる方だと思う。ちょっといづもっちとは違うかもだけどね」
壱子は話題を変えた。
「私、不思議な蝶を見たの。 実は少し前にね、私、精神的に少し不安定になって実家に戻って過ごしていたの。それで何にもする事なくてね、ふと思い付いてうちの犬に歌を聴かせてみようって思ったの。それでこっそり歌ってたの。犬はキョトンとしてたわ。しばらく歌ってたら蝶が飛んできて私達の周りをずっと飛んでるの。なんか天国みたいって思って、この蝶はきっと誰かの魂を乗せてるんだなって何となく思ったの」
壱子は話を続けた。
「それからね、しばらくして従兄弟の柔道の試合を観に中学校の体育館まで行ってね、負けたら引退って試合だったんだけどね。それで従兄弟の試合が始まったのね。そしたらまた蝶が体育館の中にいて周りを飛んでるの。私、何となく直観で、この蝶は私の指にとまるってふと思ったの。ほんとにただの直観で。そしたらやっぱりほんとに指にとまって暫くジッとしてたわ。そして従兄弟が試合で負けた頃に飛び立ってどこかにいっちゃったの。何だかとっても当たり前の事のように思えてたのが不思議だったわ」
僕は少し考えて壱子に言った。
「いい話だなと思う。偶然だとか、科学的な根拠を探して片付けてしまったりせずに、逆に神秘体験として扱ったりもせずに、そのまま心にしまっておいたらいいと思うよ。きっといつか腑に落ちる時が来る気がする」
本当にそう思ったのだ。
壱子は不意に、「いずもっち、指相撲をしよう」と言った。僕は子供っぽいからと最初は照れたのだが、しばらくすると夢中になり、降りるバス停まで指相撲をして過ごした。なんだか中学生に戻ったようだった。そうだ、昔はこんな風にとても素直に楽しく生きていたんだ、と思い出した。
それから壱子は「またねー」と言って、バスを降りた。笑顔の壱子はとても綺麗に思えた。またね、とは言ったものの、それ以来、壱子とは会っていない。
僕はその後の夏休みを、かつての友人達と過ごして元気を取り戻し、秋になり大学に戻った。その夏を境に僕は自分というものを、新しく確立し始めたように思う。与えられた常識ではなく、自分の目で自分や世界を発見して、幻想を無くさず生きていこうと決めたのだ。以前の自分が蝶の蛹だとしたら、蛹から蝶になろうと決心したのがその夏だったように思う。その変化の時代を思う時、壱子の笑顔が脳裏に浮かぶ。特別な恋心があった訳ではないのだが、思い出すととても懐かしい思いに囚われるのだ。
そんな子供と大人の狭間には、失われてゆく幻想の輝きに囚われて大人になる事を拒んでしまう人達もいる。蝶になる前の蛹のように、まだ形が定まる前の何者でもない故の美しさを守ろうとして、袋小路に迷い込んでしまうのだ。そして蝶になる事のないサナギは、、。そうだ、ご存知の通りだ。
18才の夏、僕はまるで何もかも無くしたような気分でいた。 これまで人生そのものだと思っていた学生生活はただの通過地点で、もう既に通り過ぎてしまった過去なのだという事に唖然としていた。積み上げてきた人間関係は消え去り、友人達はそれぞれの生活を始め、僕は新しい環境に違和感を感じていた。
その頃、同級生の何人かが車の事故で死んだ。生き残った人間と何が違うのだろうか、生きている僕は何をすべきなんだろうか、なんとなく未来を決める事に皆は不安や疑問を持たないのだろうか、そんな事を考えるようになってしまった。大学の授業は学生にとっては卒業する為の、講師にとっては教職という仕事を遂行する為の形だけの物に見え、馬鹿馬鹿しく思えて出席する気になれないでいた。
体を使っている時には現状や未来への不安は消えたので、僕は以前から好きだった音楽にのめり込むようになった。エレキギターを歪ませて体に震度が伝わる時、ベースの低音が体を揺らす時、ドラムのスネアが心臓に響く時、僕は生きている実感が持てた。肉体的な音を欲していた。僕は大学の授業に出ずに、どんどんバンドにのめり込むようになった。
可能性に満ちていたはずの時期なのに、なぜそんなに閉塞感を感じていたのだろうか。単に臆病だったので行動を起こせなかったのかもしれない。それとも何かしらの幻想を守ろうとしていたのだろうか。
そんな18才の夏の間を、僕は実家のある町で過ごす事にした。カセットテープに録音した音楽を聴きながら故郷への帰路についた。市バスや路面電車を乗り継ぎバスセンターまで行き、そこから二時間ほどバスに乗れば、僕の生まれた町にたどり着く。
「いずもっち?」
僕は乗り込んだバスの中で声をかけられた。声の主は、中学の同級生の壱子だった。
僕は「いずもっち」と呼ばれていたのだ。苗字の泉から、「いずみっち」と呼ばれるようにになり、やがてそれはいつの間にか「いずもっち」になっていた。中学までの同級生は、たいていは僕の事を「いずもっち」と呼ぶ。自分でも気に入っていた呼び名だが、少し離れた高校に行くようになり、僕の事を「いずもっち」と呼ぶのは中学までの同級生だけになっていた。
「やっぱり、いずもっちだ。一年ぶりじゃない?」
壱子は、白いTシャツにベージュの短パンという、ラフな格好をしていた。白いキャップが良く似合っている。
「壱子も家に帰るとこか?」
「うん、そう。いずもっち、後ろの席に移動しない?」
屈託の無い笑顔だ。言われるままに、僕らはバスの一番後ろから二つ目の席に移動した。壱子は帽子を脱いで髪を整えた。座席は二人がけの狭い椅子なので、自然と距離は近くなった。
中学の時、僕と壱子はそれほど仲が良かった訳ではない。同じバスケ部ではあったが、壱子は当時、高嶺の花という感じがして話しかけづらかったのだ。そんな壱子と親しくなったのは、去年の夏、友人の山本に誘われて一緒に海に行ったからだった。
その頃、壱子は山本と交際していた。山本は僕ともう一人、笹山も誘い、僕らは壱子を含めて四人で日本海まで海水浴に行った。それは友人のデートについて行ったようなものだった。浜辺では、はっぴいえんどの「風来坊」が流れていた。変な歌があるもんだと思ったので記憶に残っている。その歌と、壱子が着ていた鮮やかな赤色の水着を、よく覚えている。赤は壱子にとても似合っていた。僕たちは浜辺で遊んだり、軽く海に入ったりしてのんびりと過ごした。
僕は質問をした。
「あれから山本どうしてる?」
「うん、実はあんまり知らないの。」
壱子が微妙な答えだったので、二人は別れたのだろうと想像できた。僕はそれ以上は聞かない事にした。
去年、海に行った帰りの電車の中で、壱子と山本は喧嘩をしていた。何が原因かは分からないが、よくありそうな男女の揉め事のようだった。僕は気まずいので、疲れて寝たふりをしていた。笹山は本当に眠っているようだった。喧嘩は続き、壱子は山本の持っていたカセットテープを、電車の窓から投げ捨てた。壱子はけっこう激しい性格なんだなと、その時の僕は思った。
「いずもっち、大学はどう?」
「うん、実はあんまり行ってない。授業がつまんないから、ギターばっか弾いているよ」
「いずもっち、ギター好きだったもんね」
「弾いてると落ち着くんだ。音に集中するから理屈を忘れられるし、耳だけじゃなくて皮膚でも音の気持ち良さを感じられるから、感覚が肉体的になる。常識を忘れて、いろんな事を本能で判断できるんだ」
「いづもっちは頭が回るから、きっと脳みそが疲れ過ぎちゃうんだね」
「きっと常識的な事に疲れてるんだと思う」
壱子は話しやすい相手だった。気を使わずに喋れる。友達の彼女だったというのもあるんだろう。僕らは壱子の専門学校の事、同級生の近況、当時の中学の話など、色々と話をした。
ひと通り過去や現在の話をした後で、僕は最近思っている事を話した。
「僕は中学高校とね、ずっと今を大事に生きてたんだよ。今を大事にする事が生きることだと思ってた。でも卒業したらそれまで大事に積み重ねた暮らしがどっか行っちゃって、もう存在しないっていう。そして周りはみんな将来の事を考えていて、取り残された気分になってね。それで虚しくなっちゃってね」
壱子は少し間をあけて言った。
「いづもっちの話、ちょっとだけわかる。私はお母さんにね、女の人の一番綺麗な時期は20歳前後だってよく言われてきたのよ。だから女の子は今を見てる人と将来を見てる人に分かれちゃうんだって。綺麗な今を楽しもうって人と、綺麗なうちに相手を見つけてその後を考える人と。私はどちらかというと今を見てる方だと思う。ちょっといづもっちとは違うかもだけどね」
壱子は話題を変えた。
「私、不思議な蝶を見たの。 実は少し前にね、私、精神的に少し不安定になって実家に戻って過ごしていたの。それで何にもする事なくてね、ふと思い付いてうちの犬に歌を聴かせてみようって思ったの。それでこっそり歌ってたの。犬はキョトンとしてたわ。しばらく歌ってたら蝶が飛んできて私達の周りをずっと飛んでるの。なんか天国みたいって思って、この蝶はきっと誰かの魂を乗せてるんだなって何となく思ったの」
壱子は話を続けた。
「それからね、しばらくして従兄弟の柔道の試合を観に中学校の体育館まで行ってね、負けたら引退って試合だったんだけどね。それで従兄弟の試合が始まったのね。そしたらまた蝶が体育館の中にいて周りを飛んでるの。私、何となく直観で、この蝶は私の指にとまるってふと思ったの。ほんとにただの直観で。そしたらやっぱりほんとに指にとまって暫くジッとしてたわ。そして従兄弟が試合で負けた頃に飛び立ってどこかにいっちゃったの。何だかとっても当たり前の事のように思えてたのが不思議だったわ」
僕は少し考えて壱子に言った。
「いい話だなと思う。偶然だとか、科学的な根拠を探して片付けてしまったりせずに、逆に神秘体験として扱ったりもせずに、そのまま心にしまっておいたらいいと思うよ。きっといつか腑に落ちる時が来る気がする」
本当にそう思ったのだ。
壱子は不意に、「いずもっち、指相撲をしよう」と言った。僕は子供っぽいからと最初は照れたのだが、しばらくすると夢中になり、降りるバス停まで指相撲をして過ごした。なんだか中学生に戻ったようだった。そうだ、昔はこんな風にとても素直に楽しく生きていたんだ、と思い出した。
それから壱子は「またねー」と言って、バスを降りた。笑顔の壱子はとても綺麗に思えた。またね、とは言ったものの、それ以来、壱子とは会っていない。
僕はその後の夏休みを、かつての友人達と過ごして元気を取り戻し、秋になり大学に戻った。その夏を境に僕は自分というものを、新しく確立し始めたように思う。与えられた常識ではなく、自分の目で自分や世界を発見して、幻想を無くさず生きていこうと決めたのだ。以前の自分が蝶の蛹だとしたら、蛹から蝶になろうと決心したのがその夏だったように思う。その変化の時代を思う時、壱子の笑顔が脳裏に浮かぶ。特別な恋心があった訳ではないのだが、思い出すととても懐かしい思いに囚われるのだ。
子供の頃、僕がまだ8才の時、ヒキガエルに遭遇した。そのヒキガエルは背中に小さな人間を乗せていた。その小さな人間は濃い赤色のツナギのような服を着ており、パッチリとした目に茶色の帽子を被っていた。僕はその小さな人間に話しかけた。
「君はだれなんだい?なんだか初めて見るんだけど」
小さな人間は答えた。頭の中にこだまする様な声だった。
「僕はミル。君らから見ると妖精と呼ばれたりするけど、何なのかは僕も分からない。君は何て名前だい?」
「僕の名前は丸也。マルちゃんって呼ばれてるよ。ヒキガエルって初めて見たけど、君も初めて見たよ。ねえ友達になれるかい?」
「もちろんいいよ。小さい子供なら大歓迎だよ。君は優しそうだしね。ねえ、明日の日が暮れる頃、もう一度ここにおいでよ。面白いものが見れるよ」
「うん、わかった!」
僕は家に帰り、その夜はワクワクして過ごした。
そして次の日、僕はまた昨日の裏庭に向かった。そこにはたくさんのカエルが集まっている。その中にミルがいた。
「これから星に向かって呼びかけるんだ。宇宙って案外近い所にあるんだよ」
しばらくするとカエル達は一斉に鳴き始めた。めいめいに色んな鳴き方をしている。ふと、星が降って来るような錯覚にとらわれた。そして僕は宙に浮いたような感覚を味わった。
しばらくして、僕は草原にいるのに気づいた。牛が食べるような草がたくさん生えている。そして夜空はいつもより鮮明で、天の川がいつもより大きく広がっていた。
「あの天の川辺りから僕はやって来たんだよ。実は君もそうなんだけどね。宇宙人って聞いた事あるかい?あれとはちょっと違うけどさ、宇宙や時間って実はグニャグニャ曲がるんだ」
そう言うとミルは、少し遠くにある小さな小屋へと向かった。木と藁のような物でできたその家から、ミルのお母さんが出てきた。大きさはミルと同じくらいで、ニコニコ笑っている。
「あら、誰か連れて来たのね。なんだか優しそうな子じゃないの。ちょうど良かった、あそこの川まで水を汲みに行って欲しいの」
僕とミルはその川を目指した。川にはたくさんの光が灯っている。水の中や川岸に色々な色の光が見えた。
「この光が僕達の栄養源なんだ。君の家の裏から来れるこの場所は、その光がたくさんあるんだ。君はいい所に住んでいるね」
ミルの言葉に僕は嬉しくなった。
「マルちゃんも食べてみるかい」
そう言うとミルは薄い水色の、光を、差し出した。
「その光を胸の中に入れるんだ。やってごらん」
僕は言われた通りに水色の光を、胸の中に入れた。すると頭の中に懐かしいイメージが浮かんで来た。それはおととし僕が見つけた秘密の場所だった。いつも遊んでいる川から少し上流に向かうと、静かな川の淵がある。そこの水は澄んでいて、大きな赤いイボを備えた川魚がたくさんいた。そしてそこには水色の光がたくさん浮いていた。
「僕らは地球の生き物の、気持ち良いって心を栄養にして生きてるんだ。君はそういう心が多いね。おかげでこの辺りはほんとに輝いてるよ。天の川辺りからも見えるんだ」
「そうなんだ」
「君にはまだ分からないかもしれなけど、そういう気持ちは、これから世界中から消えて行くんだ。だから僕はこの時代に来たんだよ」
僕はその未来を想像してみたが、上手くできなかった。確かに今の僕の家の周りは綺麗だ。でも、それが天の川まで続いているなんて思いもしなかった。川辺ではアマガエルが鳴いている。
「これから君が大きくなって、もし気持ち良いって心が消えそうになったら、この淵を思い浮かべるといい。きっと君は今と同じ気持ちになるよ」
そう言うとミルは大きなバケツに川の水を汲んだ。僕らはそのバケツを持って、お母さんの小屋へと向かった。牧草が風でユラユラ揺れている。
小屋に着くとお母さんはオレンジ色の丸い光でお菓子を作っていた。
「さあ、どうぞ。マルちゃん、これを食べてごらんなさい」
僕はそのオレンジの光を、胸に当てた。すると、家の前の柿の木のイメージが浮かんで来た。
「マルちゃん、その柿の木はね、毎年あなたが登ってくれるのを、嬉しく思っていたの。ちょうど登りやすいように枝が並んでいたでしょう。それはね、あなたの為なのよ」
それを聞いて僕は嬉しくなった。
「僕はあの柿の木、とっても好きだよ。昔、膨らむ前の実を全部むしっちゃっておじいちゃんに怒られたけど」
「マルちゃん、柿の木はね、それでも喜んでいたのよ。その年は少ないけど、とっても甘い実がなったはずよ。そして、マルちゃん、その柿の木はいつか枯れちゃうけど、ずっと覚えていてあげてね。その柿の木は、マルちゃんの事がほんとに好きなの」
「うん、僕、きっと忘れないよ」
「マルちゃん、あなたのおかげで私達はここへやって来れるのよ。小さな事に思えるけど、心ってほんとにたくさんの物事の役に立ってるの。その事を大人になっても、決して忘れないでね」
僕はミルとお母さんに約束した。
「絶対に忘れないよ」
お母さんは、今度は薄いピンクの光を差し出した。
「ミルちゃん、これを胸に入れるとね、あなたは元の世界に戻るの。帰りたいと思ったら、それを胸に入れてごらん」
「僕が家に戻っても、またミルとお母さんに会えるかな?」
「そうね、雨が降り続いた後、綺麗に晴れた夕方にまた裏庭に来てごらん。また会えるかもしれないよ」
「わかった、また来る」
そう言って僕は二人にさよならをして、ピンクの光を胸に入れた。すると、赤ちゃんの頃の記憶が浮かんできた。たくさんの人が僕を見下ろしてニコニコしている。僕はだんだか眠くなっていった。
気がつくと僕は家の布団の中にいた。お母さんが僕を見ている。
「マルちゃん、夢を見てずっとニコニコしてたわね。いったいどんな夢を見ていたの?」
僕はミルとそのお母さんの話をした。お母さんは微笑みながらずっとその話を聞いていてくれた。家の外ではアマガエルが鳴いている。