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しばらく前に、そうだ、砥石で包丁を研いでみよう!と思いインターネットで研ぎ方を調べて研いでみた。するとまぁ切れ味が全然違うので、やった甲斐があったと思えた。それでこれからは月一で研ぐことにした。
 しかし、包丁を研いでいると、昔話の人食いの鬼婆をイメージしてすこし笑える。

 それにしてもインターネットは便利だと思う。そのうち木材を買ってきて日曜大工で棚とか作ってみたいと思う。調べれば色々作り方や直し方、飼い方が分かるのでありがたい。今さらですが。


近所の神社でお祭りをやっていた。先週は玉造稲荷神社、今週は三光神社。
 地元の子供がたくさん行ってて、賑やかでいい感じ。こういうのを見るとホッとする。地域社会がしっかりしているっていいもんだ。

 テレビで真田幸村の特集などがあると割りとよくこの三光神社が映る。それを見ると「俺の神社がテレビに映っている」と思う。我ながら子供みたいな思考回路だと思う(笑)俺の神社…俺の町…俺の山…、子供の発想…

 思い起こせば三光神社には本当にお世話になっている。不安になると神社にお参りする。
 だけど、この神社はすごいものでもう4つ願いを叶えくれた。ありがたい。本当にお世話になっている。今日なんか財布に小銭が無かったから、お賽銭なしで参ったのにキチンと4つめの願いを叶えてくれた。

 神社、すげー。後でお礼を言いに行こうと思う。
希望を持つことは大事なことだと思うようになった。もう3、4年希望について考えている。

 その為に自分の心に問わねばならない。一番大事なものをはっきり持っておくこと、その他に大事なものの優先順位をはっきりさせておく事。自分はそうしていなかったから、手段がいつの間にか目的に変わってしまって道をそれたりしたのだと分かった。一番の目的を決めていないと人に流された時に行く先を見失う。目的がはっきりしていれば、人に流されず影響や刺激を得れる。つまり目的が定まっていないと本当に上手く人と関わる事ができない。そういう風に考えている。
 
 だけれど、自分の心と向き合うのは難しい。根強い無意識の恐怖、劣等感がもしあるのなら、それらと向き合わねば自分の事は分からない。
 無意識に余分な物がくっ付いていない人は幸いだ。そういう人は実に素直に歩んで行ける。親の力なのだと思う。
 僕は自分の無意識の場所に何か恐怖があるように思えた。だから父親の事を書いてそれに向き合おうと思った。
 病気の事を書くのは自分に向き合う為ではない。人には色々事情があると言うこと、それから事情に振り回されている人に、僕もそういうのがあるのだと知って欲しかった。病気の事はもうクリアできた事。学んだ事も多い。事情があることで得する事もある。人と深く関われる。

 そういうことを色々書いても結局は、自分の視点からわかった事でしかない。だけど、僕は何か書きたかったのだ。自分の得たものは何なのか知りたかった。それに、自分の無意識の恐怖も知りたかった。

 小学生の時に怖い夢を見続けた事があった。それで眠るのが怖くなった。起きた時には夢を覚えていなくて恐怖だけが残っている。もう眠りたくないと思った。
 中学に上がった頃にその夢をまた見た。そしてその時は内容を覚えていた。海の上の道をわたって行く夢だった。その道の先で怖い事が起こっていて、自分はそこに向かって進んでいて、引き返す事ができない。そんな夢だった。
 その夢をはっきり思い出せた後、もうその夢は見なかった。僕はそれは死への恐怖が見せた夢だと思った。
 だけども、ここ数年、その夢は自分が胎児だった頃の記憶が夢になって出たものではないかと思うようになった。父親が事故死した時の母親の思いが伝わった記憶ではないかと思った。

 考えすぎだろうか?

 だけれど、自分では納得できた。僕には父親の死の悲しみが刻み込まれている。だけど、それは孤独な事ではない。人それぞれもちろん色々あるのだから。
 僕は、色々ある人と深く交流する事ができた。それは、やっかいな事を背負っていたおかげだ。

 差し引きゼロならば、大きく悲しければ、大きく喜ぶ事もできる。

 そんなものなのだろう。希望は誰かが親切にも与えてくれるのだ。
今朝は、自分で編集した中1セレクションを聴いて走った。中学1年の時に聴いていた音楽を詰め込んだもの。1986年頃の洋楽と、桑田バンドのシングルが入っている。ホイットニーとかジェネシス、ヴァン・ヘイレン、スターシップ、ロッド・スチュワート、スプリングスティーンなど。
 これらが走るのにすごくいい。中1の時僕はとても気分良く毎日を過ごしていたので、そういう気分に戻れるみたいだ。別に今が苦しいと言う訳ではないけれど、1986年は幸せな気分で過ごしていた。悩みがまるでなかった気がする。ラッキーだったのか。
 そしてまだギターを弾いていなかったので、本当にギターの音もあまり気にせず、楽しんで音楽を聴いていたかもしれない。
 という訳で、1986年の音楽は僕の耳に特別に聴こえるらしい。ありがたいことに。

すこし前に蝉の幼虫を見た。歩道を這っているのを見つけたのだ。
 蝉の幼虫などは初めて見た。夕方に見たけれど、体内時計が狂っていたんだろうか?歩行者に踏まれそうだったので、拾いあげて木につかまらせてやった。後で抜け殻があったのでうまく脱皮できたようだ。良い事をした気になった。
 恩返しにこないだろうか。


 ベランダのアジサイの花が緑色になってきた。それはそれで綺麗なのだけど、白からピンクや薄紫になる頃が一番綺麗に思えた。

 その頃の写真。

3日続けて書いてみた。ろくな事が書けないから、書かなかったのだけど、文章を書いてみよう。1歩進むには、9ぐらい失敗せねばならず、9ぐらい「ああ、書かなければ良かった」と思っても、それでいいように思う。
 それは色んな事に言えるのではないだろうか。進んで恥をかくぐらいの気持ちで自分の場合ちょうど良い様に思う。

 そんなモードになった。


 さっき、走りながらVAN HALENの”5150”を聴いていた。今、自分に必要な音楽だ。喝を入れてくれるような音。そして凄く懐かしい音。

 今は必要な音楽しか聴かない時期みたい。5年おきくらいにそうなる。

 20歳の時はT.REXや、パワー・オブ・ドリームス。25の時はジェイムス・テイラーや、高田渡。
 30で、アメリカルーツのフォーク。35で、学生の時に聴きたくても結局聴けなかったバンドを聴きあさった。
 で、今が、中高生の時に聴いてたロックをこのんで聴いている。

 思えばフォークは鎮痛剤のような音楽だった。今はリボビタンDみたいなのが必要みたいなのだ。

 そういうのはたまに聴くぐらいでいいみたい。BGMなら、今は何を聴いてもそれなりに楽しめる、というか心地よく聴き流している。


 暑いけど、またまめに走ろうかな。
思い出したようにギターを持って歌ってみたんだけど、前より良くなっているような気になった。そんな事を書くとと自惚れみたいなんだけど、恥ずかしながらそう思った。
 ライブをやるとなるとまた別の問題になるだろうけど。

 どうも、僕に必要だったのはギターの練習じゃなくて、自由にギターを楽しんで弾く事、それから歌をしっかり歌う事、それに人生経験だったように思う。

 でも、ほんとにギターを弾いてない。久々に触った。20分ぐらい。

 それでも、なんだか自分がミュージシャンなんだと思えた。今まではそんな事思わなかったけど、こんなに体に音楽が染み付いて自由に歌えるんだと、驚いた。

 もしかすると勘違いかも知れないけれどなー。

最近聴いているのは、キッスとかAC/DCとか。地獄の何とかかんとかや、ロックしよう、と歌っているような歌。エアロスミスやヴァンへイレンもちょっと前に聴いていた。ストレートなロックは良いなと思いながら聴いている。

 そういえば全部中学生の時に聴いていた音楽だ。
 中学の時、エレキギターを手に入れて最初に弾いたのはキッスの曲。クレイジーナイトという、キッスが素顔で歌っていた頃の曲だった。たしかその曲でFのコードを覚えた。

 なんだかそういう風に聴く音楽は今、中学生モードだ。すごく肩ひじ張らずに音楽を聴けているような気がする。

 今まで音楽をやるにしても、他の事にしても気がつくと力んでしまっていた。けど、よし、力まずやろう、と思えば数秒で肩の力は抜けるものらしい。
ブログの背景の色を替えてみました。MediumSeaGreenという名の色らしい。

 元々、このページを作った時には、匿名で父親の事を書くページにしてみようと思っていた。当時頭にあった事を吐き出したかったんだと思う。それで、hoshi.tou3.comというのにしたのだった、そういえば。

 hoshiというのは、父親が僕に付けた名前を音読みにしたもの。


 名前というのは不思議だなぁ、と思っていた。
 新しい概念を「あれでもなく、それでもなく、これはこうこうこういうコンセプトでこういうような特徴があります」と説明するのではなくて、「これは□□□という名です」と決めてしまえば新しい物として認識してもらえるのではないかと思っていた。
 名前を付けるという事は、そのものを独立させることができる。

 話がそれました。
 僕は父親と会ったことはないのだけど、名前は付けてもらった。生まれたらこの名にしようと話していたそうで、男用、女用の名が用意してあった。だから、名前の2文字だけは父親が僕にくれたもので、メッセージでもある。
 その事に20代の頃に気付いて驚いた。たった2文字だけど、会った事のない父の想いが伝わるものだなぁ、と思い温かい気持ちになった。きっと真面目な人だったんだろうと思う。
 そういう事があったので、日本語、漢字、は奥深いなと思うようになった。
 ベランダの鉢植えアジサイが花をつけはじめている。冬の間は葉っぱが全部落ちていて枯れてるようだったのに、こんなに青々するとは。今年のは少し紫がかっている。花のシーズンは枯れないようにたっぷり水をあげないと。


 近頃、ひとつ乗り越えた気がする。ここに父親の死の事、統合失調症の事を書いたからだと思う。書く事でそれらを持って生きてく覚悟ができたんだろう。仕方のない事だし、それで得たもの知ったものもたくさんある。
 いわゆるカミングアウトで、自分のこだわりが小さくなった気がする。歌を作る動機が薄くなったのかもしれない。それでいいやと思う。曲ができなくてもかまわないような。
 一つやり残した事、それは「歌いたい」という事。もっと歌ってみたい。ギターも曲作りもあまり惹かれなくなってきている。弾いてないからだろうけど。でもまだしばらくとうぶんは音楽活動は保留だ。
 
 それから前のブログからここへのリンクを、そのうち消そうと考えています。僕の事を知っていてわざわざここまで見に来てくれている人には、統合失調症の事は知られても全然かまわないんだけど(むしろ知ってもらうべきだと思っている)、そうでない人には、特に会った事の無い人などには、誤解も多いような事柄なので。すみませんそのうち消します。”b-snail”で検索して来て頂くとありがたいです。

 いろいろ変化してきている。怠けないようにしたい。
   
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